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本を読んでいるようで、人を読んでいる——「おてら哲学フォーラム」全6回レポート
催し名:おてら哲学フォーラム〜主体性を考える 一緒に生きることの哲学から〜(全6回)
開催日:2026年2月9日〜7月13日(月1回・全6回)
月曜日の夕方6時半。仕事を終えた人たちが、ぽつりぽつりとお寺に集まってきます。大学教員、看護師、介護士、幼稚園の職員——年齢も職業もさまざまな十人ほどが囲むのは、人類学者ティム・インゴルドの『教育とはなにか』。一人で読むにはなかなか手強い、と主催者自身が認める一冊です。
会場は、大阪・天王寺の寺町にある應典院。教育や文化、対話を通してまちに開かれてきた寺院です。この「おてら哲学フォーラム」は、その本堂ならぬ「気づきの広場」で、2月から7月まで月に一度、全6回にわたって開かれました。案内役を務めたのは、教育哲学を専門とする研究者。とはいえ、先生が「正解」を教える講義ではありません。毎回、担当者が受け持ちの章をまとめて発表し、感じたことや疑問を率直に出し合う。誰かの問いによって、また別の誰かの思考が動き出す。そんな時間が積み重ねられていったといいます。
「フォーラム」という言葉の語源は、古代ローマの都市の中心にあった公共広場です。市場にも、裁判にも、政治集会にも使われた、誰にでも開かれた場所。それをお寺で開くというのは、意外なようでいて、実はこのまちの歴史に深く根ざした試みなのかもしれません。かつての寺子屋が、単なる学校ではなく、人々が集い、教え合い、学び合う開かれた場であったように。
会の中で交わされた言葉には、印象的なものが多くあります。「事物や人について学ぶのではなく、事物や人とともに学ぶ」。「伝達の教育ではなく、注意を払う教育」。知識を一方向に受け渡すのではなく、目の前の世界や他者に丁寧に注意を向けることから学びが立ち上がる——本の内容そのものが、この読書会という場のあり方と重なって響きます。
興味深いのは、専門家の解説と同じくらい、看護や介護、保育といった現場で働く人たちの一言が、場に重みをもたらしていたことです。研究者が多くの文献を経て到達する結論に、現場の人が自らの経験から一言で触れてしまう瞬間がある。知識の量ではなく、生きられた経験が言葉の背後にあるからでしょう。
そしてもうひとつ。人生観や死生観といった、普段は正面から語りにくいことも、本という媒介があると自然に語れるようになる、ということ。翻訳家の向井和美さんは、読書会について「本について語りながら、実は自分の人生を語り合ってきたのではないか」という趣旨のことを書いています。本を読んでいるようでいて、実は人を読んでいる。人の話を聞いているようでいて、実は自分自身と出会っている。
仕事の時間でも、家庭の時間でもない。何かに規定されない「中間的な時間」が、まちの中に月に一度ひらかれている。学びは子ども期だけのものではなく、生きているかぎり続いていくものだとすれば、應典院のような小さな公共空間こそが、世代や立場を超えて支え合う地域の土壌になっていくのだと思います。一冊の本を、誰かと一緒に読んでみる。そこから始まる学びが、私たちのすぐ近くにあります。
本フォーラムは應典院(あそびの精舎フォーラム)の主催で開催されました。当日のより詳しい様子や、会の背景にある考察は、以下の記事をご覧ください。
