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2026/4/22

大人の世界は、いつから「止まって」しまったのか——むぬトーク vol.5 レポート


「大人の世界は止まっている」。この日のセッションは、そんな問いかけから始まりました。

水筒を見れば「水を入れるもの」、紙を見れば「絵を描くもの」。目の前にあるものの意味が、いつのまにかひとつに決まっている。効率的ではあるけれど、その関わり方を続けるうちに、自分自身までも「これをするための人」のような、交換可能な存在に思えてくる——現代の「生きづらさ」とも、どこかで地続きの話かもしれません。

語り手は、子どもと世界の出会い方を研究してきた教育学の研究者。子どもの中に息づく「アニミズム的な想像力」——ものや生きものを、意味の決まった対象としてではなく、生きた相手として迎え入れる感受性——を入り口に、豊富なエピソードを聞かせてくれました。

子どもはカタツムリや葉っぱと出会うたび、半分その存在になりながら世界に入り込んでいくといいます。紹介されたのは、シベリアの狩人の話。彼らは狩りのとき「自分がシカになる」感覚の中で動くのだそうです。人と、人ならざるものの境界が、出会うたびに揺らいでいく。同じことが、子どもの日常では当たり前に起きている、と。

ある保育園で半年つづいた、一匹のカタツムリの物語も語られました。「狭そう」「寂しそう」という子どもたちの感覚に先生が乗り、給食室まで巻き込んで、最後には「カタツムリさんのための遊園地」が生まれていく。見逃せないのは、変わったのが子どもだけではなかったことです。ある先生は仕事帰り、道を渡るセミの幼虫を傘でそっと誘導しながら、「あの子の姿が、自分の中に生きている」と書き残したといいます。

ケアは、大人が子どもに一方的に施すものと思われがちです。けれど実際には、互いに変わり合う「往復」なのかもしれません。園で生まれた変化は先生の帰り道にこぼれ出し、やがて家庭や地域の風景まで、少しずつ変えていく。子どもから始まった学びが、大人の暮らしへと循環していく場面を見るようです。

話は、より切実な場面にも及びました。バナナに名前をつけた女の子が、食べ終えた皮を捨てる段になって泣き崩れてしまう。父親が「コンポストに入れてあげる?」と聞くと、「バナナちゃん、おいしいお野菜になるかなあ」と言いながら涙を拭いたそうです。いのちの終わりや、いのちが次のいのちへ還っていくことは、遠い特別な話ではなく、子どものすぐそばにあります。コンポストの仕組みを知っているのは大人の知恵ですが、それを「お見送り」に変えたのは、子どもの想像力でした。ふたつが出会うとき、生ごみを処理する装置が、いのちを看取る場所になる。教育を「子ども時代」だけに区切らず、老いや病、死までを含んだ人生まるごとの営みとして分かち合っていく——PECFが大切にしたい学びの姿が、この小さな場面に凝縮されているように思います。

後半の対話では、参加者から「アニミズムは必ずしも優しいものではないのでは」という、まっすぐな問いも投げかけられました。子どもは、死んだダンゴムシを潰し続けることもある。共感だけでは語りきれない。正解のすぐには出ない問いを、その場の全員でしばらく抱え続ける。この時間は、人々が集い、教え合い、問い合ってきたお寺という場所の長い記憶と、静かに響き合っていました。

大人になる過程で、誰もが少しずつ「動いている世界」を手放してきたのかもしれません。何でも一瞬で答えが返ってくる時代に、それでも手放したくないもの。「生きているものどうし」として誰かと向き合う想像力を、子どもたちはいまも、すぐ隣で見せてくれています。


本イベントは應典院の主催で開催されました(協力:Deep Care Lab)。当日のより詳しい様子は、以下の詳細レポートをご覧ください。https://www.outenin.com/article/article-21173/