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2026/7/10

頼れる先が増えるほど、遠くへ行ける——「子ども主体」を考える教育講演会


催し名:教育講演会「子ども主体を育ち合いから考える ―親として考えたい幼児期の関わり―」(親の心・子どもの心を育むシリーズ)

開催日:2026年7月10日(金)


朝礼を終えた園庭で、一人の子どもが足元をじっと見つめていました。そこにあったのは、死んでしまった大きなセミです。触るのは怖い、けれど気になる。息を吹きかけては考え込むその子に、先生が「仏様のところへ連れて行ってみる?」と声をかけます。子どもは階段の下のお地蔵様までセミを運び、そっと置いて、静かに手を合わせました。時間にすれば、五分ほどの出来事です。

講演の冒頭で紹介されたこの場面は、「主体性」という言葉の輪郭を、思いがけない角度から照らしていたように思います。主体性とは、元気よく手を挙げる積極性のことではないのかもしれません。立ち止まり、迷い、自分なりの答えを選び取っていく——その過程そのものを指す言葉として語られていました。

なぜ今、それが問われているのか。講師が挙げたのは、答えが一つに定まらない社会という前提でした。調べれば済むこと、聞けば返ってくることは、手元の機械が引き受けるようになりました。だとすれば、決められた道順を示す「地図」よりも、自分で方角を決める「羅針盤」を手にする力が要る。国際的な教育の議論でも、この比喩が繰り返し使われているといいます。

ただし、羅針盤は不安の只中では読めません。子どもが外の世界へ踏み出せるのは、いつでも戻れる場所があるからだ、という話が続きました。大人の手には二つの役割があり、一つは不安なときに「おいで」と受け止める避難所、もう一つは落ち着いた子を「行ってらっしゃい」と送り出す基地。そして、その手は親だけのものである必要はありません。園の先生、地域の人——頼れる相手が増えるほど、子どもはより遠くまで挑戦できるようになる。自立とは、依存先を増やしていくことだという捉え方が紹介されました。

園での実践も、その循環の中にありました。年長児が異年齢の交流会で歌う曲を選びきれず、「自分たちでコンサートをやったらいいんじゃない?」と言い出した。子どもたちは講堂を使わせてほしいと自ら交渉に出向き、ポスターに何を書けば人が来てくれるのかを話し合い、チケットの値段やアンコールへの備えまで相談したそうです。結果は追加公演が出るほどの反響でした。宣伝も集客も交渉も、大人の社会の仕組みを、遊びの側へ引き込んでしまったことになります。

家庭へ持ち帰れるものとして示されたのは、五つの、ごく手のかかる提案でした。待つこと。小さな選択を委ねること。「悔しかったね」と気持ちを言葉にしてあげること。叱ったあとも戻ってこられる関係であること。そして、完璧でなくていいこと。質疑では、動画やゲームとの付き合い方に悩む声も上がりました。返答は、一方的に禁じるのではなく、何分見るかを子どもと交渉し、約束として結び直すこと。ここでも大人は、答えを配る側ではなく、隣で決め方を練習する側に置かれていました。

子育てを、最短ルートを探すオリエンテーリングではなく、寄り道や発見を楽しむハイキングとして捉える。締めくくりに置かれたこの言葉は、子どもだけでなく、その隣を歩く大人の時間の使い方をも問い直しているように響きます。園と家庭が子どもを共に育てるパートナーであるなら、その手はさらに地域へと開かれていくはずです。セミを運んだ五分間を、誰かが待てる社会かどうか。問われているのは、たぶんそこなのだと思います。


本イベントはパドマ幼稚園の主催で保護者を対象に開催されました。